こんにちは。
毬紗です。
芸術の世界には、ちょっとやそっとの努力では、到底太刀打ちできない才能を持つ人たちがいると、比較的若い頃に知りました。
若い頃に、打ちのめされておきましょう。
すごい人と言われている人の講演や展覧会に行って、
「この人、本当にすごい!」
と感動する経験とは、違いますよ。
それでは娯楽です。
本物のすごい人に「触れる」ためには、まずは自分の仕事に一生懸命になって、自分の限界を知りましょう。
公募展の150号の絵を、半年間かけて制作して、それでも落選し続けている人は、150号を2週間で描いて、毎年入選する人のすごさが分かります。
英検1級に、何度も落ちた人は、サラッと勉強して一発合格する人のすごさが分かります。
限界まで頑張った時に、
「ああ、でもその上の世界を、軽々とクリアしている人たちがいるんだ」
と、実感することができるのです。
それが「打ちのめされる経験」です。
まだ血気盛んな若い頃は、京都市美術館や、京都国立近代美術館に展示してある日本画をみては、
「なんでこんなに、私と違うんや…」
と落ち込みまくっていました。
京都では、常設展でも、良い日本画が展示されています。
学校の帰りに常設展に寄って、
「はあ…違いすぎるわ」
と落ち込むのが恒例になっていました。
自分で描いて、比較するので、ガンガンと違いが伝わってくるのです。
努力では到達できない場所があると知るのは、なるべく早い方がいいと考えています。
娘をみていると、
「勉強が好きな人たちの脳は、生まれつき違う」
と感じます。
記憶力や分析力が、普通ではありません。
それほど努力しないでも、普通の人が死ぬほど努力する地点へ、軽々と到達するのです。
その人たち自伝などで、「同級生に**君がいたから、僕は数学者になるのを諦めた」「**くんの絵をみて、私は芸術家ではなく、教育者への道を選んだ」などの記述がありますよね。
私も美術高校の同級生に、抜群に素描のうまい人がいて、
「私は、写実では勝負しない。この上手さは、努力で到達できるものではない」
と悟りました。
その人の親族は、芸術家ばかりで、まだ遺伝子研究が今ほどは進んでいなかったのですが、
「芸術家に向いている遺伝子はあるんだろうな」
とも感じました。
日本の「田舎の秀才」が、アメリカの「世界の秀才」に出会うような衝撃は、早く味わっておきましょう。
自分の強みは、
「さらにすごい強みを持っている人」
に出会って、初めてクリアに分かります。
「自分程度のレベルでは、すごいとは言えない」
この挫折感から、
「では何を強みにしていけば、勝ち抜いていけるだろう」
と、自分自身や、自分のいる業界を、客観視しようとするのです。
「自分は、もしかしたら、すごいものを持っているかもしれない」「隠れた才能があるかもしれない」と思えるときは、まだ世間知らずです。
本物に出会って、ようやく「本物の才能は、隠れることはない」「むしろ、ダダ漏れになる」と知るのです。
映画「ギリシャに消えた嘘」の原作です。映画も良かったのですが、「もしかしたら、本で読んだ方が面白いかも」と思いました。
本日の読書。
— 宮毬紗 (@miya_marisa) 2018年11月28日
○Patricia, Highsmith. The two faces of January. Grove Press