京都御所南 Gallery ICHIHARU アートお喋り空間

教養は一流の人脈をつくる。京都のアーティストが超一流の人生から学んだ、実学の教養空間。

ロラン・バルトと日本を旅をする/『表徴の帝国』の《天ぷら》

こんにちは。
毬紗です。


ロラン・バルト『表徴の帝国』を引っ張り出してきました。


日本的な素材を使って、ロラン・バルトエクリチュール話し言葉ではなく、書かれた言葉)の楽しみを存分に伝えてくれる哲学の本ですが、私にとっては紀行文です。

バルトが日本の文化を独自の思想で語っています。


本を読みつつ、さっそく妄想に入ります。

「初めて日本を訪れたフランス人の知的な友達との二人旅」

しかも、イケメン。

バルトと一緒に、日本を再発見する旅です。


なかでも好きなのは、「天ぷら」についてのエクリチュールです。

(少しも煮たきをしない)料理人が生きたうなぎをつかまえて、頭に長い錐を刺し、胴をさき、肉をはぎとる。このすみやかで(血なまぐさいというよりも)なまなましい小さな残虐の情景は、やがて《レース細工》となって終る。ザルツブルグの小枝さながらに、天ぷらとなって結晶したうなぎ(または、野菜や海老の断片)は、空虚の小さな塊、すきまの集合体、となってしまう。料理はここで1つの逆説的な夢、純粋にすきまからだけでできている事物という逆説的な夢を、具現するものとなる。この料理の空虚は(しばしば天ぷらは、空気でできた糸毬といわんばかりの球となっている)人間がそれを食べて栄養とするためにつくられているものであるだけに、いっそう挑発的な夢なのだが……。

「すきま」より ロラン・バルト『表徴の帝国』ちくま学芸文庫


バルトにとっての天ぷらは「すきまだらけの食べ物」で、天ぷら職人は「魚とピーマンで(小麦粉の)レースを編みあげる若い職人」なのです。

西洋の「意味感」「重さ」のあるフライに対して、「中心のない」「完璧な周縁をもたないすきま」の天ぷらを、バルトは詩的に解体します。

「天ぷら」との記述がなければ、アート作品の話でも通用しますね。

身体を維持するための食べ物としての「機能性表徴」の表現から、大きく外れています。

表現されているのは、「天ぷら」というものの心象です。


バルトが天丼を食べた思い出を手紙にしてくれたら、きっとこんな感じなんだろうな。

私はどんな返事を書くでしょう。


「すき焼き」の記述もあり。