京都御所南 Gallery ICHIHARU アートお喋り空間

教養は一流の人脈をつくる。京都のアーティストが超一流の人生から学んだ、実学の教養空間。

そして、次に手にするのは谷川渥のベラスケス《ラス・メニーナス》でした。

こんにちは。
毬紗です。

ミシェル・フーコー『言葉と物』を読んだので、次は・・・と探していたら、ありました。

谷川渥『鏡と皮膚』です。

30代に出会い、幾度も読んだ愛読書です。

プロフィールのお写真が、イケメンです。

カッコええし、東大卒やし。


谷川先生は、「可視性の謎 ベラスケス《侍女たちラス・メニーナス》をめぐって」の中で、ものすごーく砕けていえば、

フーコーの前提としている<消失点>の場所が違うんだけど?」

と仰っています。

こんな低俗な口調ではありませんが、「ちょっと待った」な勢いはあります。

少し長くなりますが、本文から抜き出して書くと・・・

フーコーは、《侍女たち》の空間的布置について犀利な記述を展開するなかで、背後の鏡について、しかしこう述べている。

その位置はほとんど真中にあたる。つまり、鏡の上の縁は正確に絵の高さを二分割する線と重なりあっており、しかも背景の壁(少なくとも目に見える壁の部分)の中央の位置を占めている。だから鏡は、絵そのものと同じパースペクティヴを示す線によってつらぬかれているのにちがいない。(渡辺・佐々木訳)

背後の鏡の上の縁が、この《侍女たち》の絵の高さをほぼ二分割する線と重なっていること、そして「少なくとも目に見える壁の中央の位置を占めている」ことは、本当である。しかし、直ちに「だから」と続けるわけにはいかない。なぜなら、鏡は「絵そのものと同じパースペクティヴを示す線によってつらぬかれて」てはいないからである。鏡の位置は、ほとんど真中にある、とフーコーはいう。しかし正確には真中にあるわけではない。向かって右側の壁に掛けられているらしいいく枚かの絵の縁がなす斜線や、右側の壁と天井によって構成される線、あるいは天井かにかろうじて見えるシャンデリアを吊るすための二つ鉤を結ぶ線を手がかりにして、この絵の遠近法上の消失点を求めれば、それはあの鏡のなかにではなく、その横に開かれらた戸口に佇んでいる人物の腕ないし手の下あたりに位置するとみるのが妥当である。


そして、「この誤れる前提に基づいて」フーコーが論述をしているので、それは違いますよと指摘しています。

こうやって、美術の評論は、次々と批判され続けていくのです。

闇雲に「へー、そうだったんだ。すごーい」という全面肯定な姿勢では、ダメなのです。


ある意味で、正解はないのです。

美術評論を、「これ、本当かな?」と疑問を持ちつつ読むことは、生きる訓練にもなります。

権威ある人の言説を鵜呑みにし、思考停止することの恐ろしさを教えてくれます。