京都御所南 Gallery ICHIHARU アートお喋り空間

教養は一流の人脈をつくる。京都のアーティストが超一流の人生から学んだ、実学の教養空間。

ミシェル・フーコーのベラスケス《ラス・メニーナス》

こんにちは。
毬紗です。

久しぶりに、ミシェル・フーコー(1926 - 1984。フランスの哲学者)『言葉と物』を読んでいます。

フーコーは、この記事のパノプティコン(全展望監視システム)」の説明で登場しました。
b-k.hateblo.jp

パノプティコン - Wikipedia


いやはや、相変わらず難解です。

でも時々、読みたくなります。

フランスではベストセラーになったとか。

フランスのリセ(高校)では、哲学の授業があります。

羨ましい…。


第1章「侍女たち」は、スペインの画家、ディエゴ・ベラスケスラス・メニーナスについて書いてあります。

様々な解釈を美術史家が書いた《ラス・メニーナス》を、フーコーがどうやって解釈するのかが読みたくて買った本でした。


絵画の解釈には、様々なアプローチがあります。

ゴシックからルネサンス絵画を勉強した私が主に使用したのは、図像学(イコノグラフィー)」「図像解釈学(イコノロジー)」と呼ばれるものです。

図像学は、主に絵画の中の事物を研究して、絵画の解釈をします。

図像解釈学は、作品の奥底にある歴史意識、精神、文化などを見つけて、絵画を解釈します。

ユング心理学が好きな私は、図像解釈学にハマりました。

何度読み返したことか…。


ですが、フーコーは違います。

考古学的なアプローチによって、論を展開していきます。

「知に内在する権力」(「これが真実」と定義付けてしまうイコノグラフィーもそうです)を離れて、そこに書かれていないものを、考古学のように掘り起こします。


*以下、ネタバレあり!


最初は、「なんの話?」と戸惑います。

内容を知らずに読むと、「鏡」とか「オランダ絵画」とか、《ラス・メニーナス》を語るときに多用される言葉に出会うまで、意味不明です。

ですが、知ってから読むと面白い。

「ああ、そんな鑑賞法があったのか」と感動します。

導入は、後ろ向けになって、なにが描かれているのか隠されている画布と、画家と、鑑賞者でありながら<絵のモデル>と同じ視線を共有する「絵の外にいる私」

この関係を、まるで現実の話のように、フーコーは語り始めます。

ですので、途中でいきなり、絵画という枠組みの外から、絵画の中に入ってしまいます。

フーコーの言葉と、絵画の中の画家、モデルの視線をもって絵の中に誘われます。


裏返された画布に何が描かれているのか、絵のモデルであるはずの王と王妃、鑑賞者である私には見えません。

「見ているものと、見られているものの不在」という、曖昧な表象の不可視性を指摘し、<見えているものの底知れぬ不可視性><見る人の不可視性>と固く結び合っていると述べています。


視線が交差し、消えていく不思議な感覚、やみつきです。


*第1章「侍女たち」を読み通して、「意味がよくわからん!」となった場合、第2章「世界という散文」と第3章「表象すること」を一読して、もう一度トライしてみてください。